2018年8月 飛び込んできたシャープ矢板工場閉鎖のニュース

ビジネスマンとして奔走する中で目に飛び込んできた故郷の衝撃的なニュース。

地元矢板市の未来へのかげりを見せつけられ、ついに可視化されてしまった感じがしました。もちろん、2016年に香港企業の鴻海により買収されたこと、日本のお家芸であった家電や製造業の不振は、一人のビジネスマンとして把握はしていました。

しかし、そのマクロな不振の流れと我が地元矢板市とが結びつく日が来るとは想像できていませんでした。

そんな衝撃的なニュースに接しても、まだどこか他人事でありました。2018年当時、私は課長職昇進の直前。ただ、ひたすらに、がむしゃらに、働いていました。翌年に結婚することを決めた頃でもあり、自分自身が自立できるように必死な毎日。飛び込んできた地元矢板のニュースに衝撃は受けたものの、まだどこか他人事でした。

お盆やGWやお正月に帰省をするたび、「矢板は寂れたよ」「シャープもなくなっちゃったよ」「高齢者だけの街になっちゃう」という街の人からの声を耳にしてきました。なんとなく「すたれていく街」に見えているだけでした。私自身に余裕がない状態というのもあり、地元に対して当事者意識もつことが出来ていませんでした。

2019年 5月 最愛の祖母という引力

私の両親は共働きであったので、毎日一緒にいてくれたのは祖母でした。私は完全なおばあちゃん子。その最愛の祖母の体調が崩れてしまいます。しかも、私の結婚披露宴という人生の晴れ舞台を間近に。幸いなことにどうにか都内で行った挙式への列席は叶い、涙ながらに祝してくれました。しかし、祖母の体調は年齢もあり、ゆるやかに、そして着実に悪化の一途を辿っていきました。日ごとに衰えていく祖母を想いながらも、大阪転勤などもあり、毎日の業務に忙殺されながら、思う存分の帰省もかなわぬ日々。

共働きの両親にかわって、いつも私のそばにいてくれた祖母。

誰よりも結婚を喜んでくれた祖母。

そんな祖母のそばにいてあげたい。

たったそれだけのことが、こんなにも難しいことなんだと苦しさが増していきました。私が仕事を辞めて、地元に帰ればそれで済む。それで祖母を支えてあげることができたならなんと幸せなことだろう。今すぐに帰ればいいじゃないか。しかし、何もかもを捨て、舞い戻ってきた孫を見て、本当に祖母が喜んでくれるだろうか。”私”の未来を一番祝福してくれた祖母が、当の”自分”のためにその未来を捨てて帰郷した私の顔を見てどう感じるのだろうか。

結局、葛藤することしかできなかった私。

祖母が存命のうちに仕事を辞めて帰郷する勇気が持てず、情けなく弱い自分を恥じました。

しかし、どうすればよかったのか・・・。

矢板市の将来人口予測値という衝撃と決意

祖母の一件があってから、日々の業務を行う中でも、いつの間にか地元矢板のことを考えるようになっていました。

ある日、業務で日本の人口統計を整理する機会がありました。「矢板の人口予測って、どうなっているんだろう?」インターネットで検索し、私は衝撃を受けました。

2020年には3万人を超えている人口が、2045年には2万人へ減少するという予測結果が、13インチの小さな画面に無機質に映し出されていました。私の脳裏には、その数値の変化によって生み出される数多の実際的な影響や、これから損なわれてしまいかねない、矢板でのかけがえのない記憶が駆け巡りました。

どうして、これらが失われてしまわないといけないのか。なにがあれば、この未来を避けられるのか。

この問いにぶつかったとき、不意に矢板出身の先輩の言葉が蘇ってきました。

「矢板はさぁ、おれも大好きな町なんだけど、仕事がないんだよねぇ。」

私自身、最愛の祖母が辛い時、そばにいたいと願った時、矢板市の求人を検索しましたが、当時はたまたまだったのか、ほとんど求人が見つからない状態でした。家族が暮らす矢板に自分もいたいと強く願ったとき、私自身に最も高い壁として立ちはだかったのが「仕事」という存在でした。

そうか、そういうことなのか。

どんどん人が減りゆく矢板・・・

シャープが撤退を決めた矢板・・・

独自財源が減りゆく矢板・・・

・・・

それらの負のサイクルの起点に雇用や産業という問題があることに気がつきました。

もし、仕事があれば、矢板に帰ることにあれほどの葛藤はなかったかもしれません。

もし、仕事の選択肢がもう少しだけでもあれば、家族みんなで笑いあえる未来を矢板で実現できたかもしれません。

仕事がもう少しだけあれば、祖母は孫のUターンを喜んでくれたかもしれません。

そんなことを考えるうちに、矢板から離れた都会に居を構え、オンライン上でリモートワークに打ち込んでいる自分がだんだん滑稽に思えてきました。当時、住んでいたマンションに投函される東京都港区議会広報誌によれば、港区では人口増加が続いているため、受け皿となる小学校を新設することが決議され、どんな名前にするかというのが大きな議題でした。

この差は一体なんなんだ?

自分に出来ることは何かないだろうか?

ふるさとに貢献できることはないだろうか?

そんな自問自答を繰り返しました。

入社以降、社会課題や人々の負(困りごと)に寄り添い、我が事として捉えて、顧客や生活者の役に立つことを徹底的に叩き込まれてきました。

18歳で離れていた矢板に、自分が直視してこなかった大きな負があったのです。

自分も、地元矢板のために汗水を流したい、流させて欲しい。

街として目指す未来像を見失うことなく、長期目線を忘れず、足元の課題をちゃんと解決していく仕事がしたい。

気づけば、そう願うようになっていました。

他責な自分から、自責で捉え、行動に移す自分へ

現在と未来を支える、現役世代としての当事者意識。

これが市政に挑戦しようと思った理由です。

2021年の夏。

私は、仕事の選択肢に溢れ、家族と笑える街にしたい。

私は、100年後を生きる市民でも、暮らし続ける理由がある街にしたい。

ちなみに祖母は2021年12月11日に他界しました。矢板市の政治へ挑戦する決意をした私が、矢板への引越しを行う予定日が、いみじくも告別式となってしまいました。政治への挑戦や、矢板への引っ越しの報告を誰よりも喜び、心からともに過ごせる日々を楽しみにしてくれていた祖母。しかし、近くで過ごし、支えることは出来ませんでした。祖母が生きる矢板に住むことが出来なかった後悔と懺悔は間違いなく自身の原動力になっています。

私は、そんな想いをしてしまう人がいるとするならば、絶対に減らしたい。