どんな幼少期を過ごし、何に夢中になり、何を考え、どんな歩みであったのかをまとめさせて頂きました。少しでも私の人となりを感じて頂ければ幸いです。少し長いですが、お付き合い頂けますと嬉しいです。

概要

森島 武芳(もりしま たけよし)

昭和61年(1986年)矢板市生まれの36歳。

すみれ幼稚園・矢板小学校・矢板中学校・宇都宮高等学校・筑波大学・筑波大学大学院博士前期課程修了。2011年に新卒入社した株式会社リクルートで組織/人材領域において企画職、営業職、渉外職、課長職に従事。新規事業組織での企画職業務が最も長く、経営大学院へ単科生として通いながら事業戦略立案に力を入れてきました。既存事業内では営業戦略(対面&非対面)、販売代理店経営管理、組織マネジメント、事業内人材育成計画立案業務、職務要件制度改定業務等々を担当。現在は、故郷の衰退に危機感を覚え、政治の世界から貢献すべく2021年末に東京から妻と息子とUターンし、矢板市に暮らしています。株式会社リクルートは2023年はじめに退職し、矢板市を奔走しています。

趣味はゴルフと釣り。学生時代は剣道とアルペンスキーに夢中でした。休日は息子と遊ぶのが一番の楽しみです。人からは好奇心旺盛で人情深い性格と言われることが多いです。ランニング中にロッキー気分で登りきった後の長峰公園の展望台から一望する矢板市の景色が大好きです。歳をとったのか、朝イチの高原山や鶏頂山がとてもキレイに感じます。

仲間からは「たけちゃん」「もりし」などとニックネームで呼んでくれることが多いです。

好きな食べ物は、ニンニク、辛子明太子、二郎系、納豆、ハラミです。

小学校入学前

昭和61年(1986年)きうち産婦人科にて誕生。両親はともに高校教師で、4歳上の長女に次ぐ長男として生まれました。矢板に住むおじいちゃんもおばあちゃんもともに小学校教師という、教師一家で育ちました。

とにかく体を動かすことが好きなくせに、すぐに風邪をひいてはこじらせ、母の有給休暇は毎年ゼロになっていたほど親には迷惑をかける子でした。お調子者で、人を笑わせるのが好き、友達が大好き、だけど不登校気味な保育園〜幼稚園時代。

すみれ幼稚園では週に数回、宇都宮から来る体操の先生の教室が何よりの楽しみでした。毎回、新しい技を教えて貰い、自宅でもたくさんたくさん夢中になって練習したのを覚えています。楽しんで練習をしていた甲斐あって、年長さんの時にはロンラードからバク転が出来るまでになっていました。いま振り返れば、練習をすれば出来ないことも出来るようになるもんなんだ!という成功体験をあそこで積ませて頂いていたと思います。

小学校

矢板小学校に入学。幼少期は荒井の借家暮らし。両親が共働きだったので、日中は扇町(5区)にある祖父母宅で多くの時間を過ごしました。荒井と扇町の両方に友達がいたのが、とても嬉しかったのを覚えています。小学校2年生のときに上町(4区)に家を建て、野球チーム、公民館での大人の社交場への同席(飲み会)、子供キャンプ、山車を引くお祭り、など地域の皆さんの愛情をたっぷり頂いて楽しく育ちました。山車を引く夏祭りでは終着点の塩釜神社におけるクライマックスのお囃子に圧巻されるあの雰囲気などは、匂いとか蒸し暑さとか含めて今でも忘れません。

小学校に入学したあとは見事に「小1ギャップ」に直面し、学校にちゃんと行けるまで半年くらいかかってしまいました。とにかく、おばあちゃん子だった私は、おばあちゃんのそばを離れるのが嫌で、学校に行くことをひたすら拒み続けていました。

嫌だった新しい環境に、なじませてくれるきっかけになったのはスポーツでした。みんなでキックベース、ドッチボール、サッカー、鬼ごっこを繰り返す中で、ややガキ大将風に変化していきます。水泳、学童野球(矢板連合一期生)、剣道、アルペンスキー、ピアノとスポーツや習い事に忙しく過ごし、出来なかったことが出来るようになる練習のプロセスが楽しく、様々な習い事に同時並行的にのめり込んでいきました。学童野球は県大会2回戦まででしたが、水泳はイトマン関東大会への出場、剣道は県大会個人ベスト8、アルペンスキーは県大会優勝やSAJ1級取得など、子供ながらに努力や練習の成果を実感していたように思います。大事なことはすべてスポーツで学んだように思う一方で、ピアノは途中で挫折してしまい、代表曲は「ダンプカーの行列」にとどまります。でも、とてもいい曲です。

複数のスポーツや習い事に熱中する中で、数多くの素敵な指導者や仲間と出会いがありました。学校の先生以外知らない私は、世の中にはいろんな人がいるんだなー!と世界が広がり、外の世界に対する好奇心がどんどん大きくなっていった時期でもありました。

※高めの球に手を出し、見事に三振している写真です

中学校

矢板中学校入学後は、様々なスポーツから剣道に絞ることにして、剣道部に入部。当時、県北にある中学校剣道部が合同で行う塩原合宿なるものがあり、厳しい練習で有名でした。跳躍素振りという辛い素振りを、真夏の体育館でただひたすら続けられるだけ続けるというみんなが恐れる過酷なメニューがありました。灼熱の体育館で徐々に意識が朦朧としてくる中、今思えば自我の目覚めのような不思議な感覚を得ます。「中途半端な自分から脱し、自分で決めた目標に向かって努力をすることがこれからの自分には必要だ!」という強烈に目が覚めるような不思議な感覚だったのを覚えています。それ以後、定めた目標が「何もない矢板から自分の力で脱出すること」(笑)。中間や期末試験の前でなくとも、かなりの時間を勉強に時間を割きつつ、剣道部では主将として稽古に励み、中学校1年生のときに生徒会副会長、2年生以降は生徒会長も経験させて頂きました。憧れの先輩の影響や、普段の勉強の甲斐もあって、いつしか宇都宮高校を目指すようになり、無事に合格することができ、宇都宮への電車通学が始まります。

高校

高校入学後も、剣道部に入部して朝練・夜練を経て矢板に電車で帰ってくるのは22時頃という毎日を送ります。仲良くなった同級生や先輩・後輩には、医者や弁護士、会計士、銀行員、県庁職員などを親に持つ人も多く、職業として教師しか知らなかった私には彼らの一つ一つの話がとても面白く刺激的で、世界がどんどん拡張するような感覚で毎日を過ごしていたのを覚えています。部活に夢中になる生活を送る中で、努力の甲斐あって県でも徐々に成績を残すことができるようになりました。インターハイの個人出場は逃してしまいましたが、国体強化指定選手に選抜いただき、県代表としての活動もさせて貰いました。国体直前の代表メンバー選抜試合で負けてしまい、団体出場枠が5名の6番目の補欠選手となってしまいます。補欠選手であったので、受験を優先し辞退し、私の青春であった高校剣道はそこで引退となりました。すっかり学問に取り組むのを忘れいてた私は、国体選抜予選があった9月の引退後、一気に猛勉強をして現役で筑波大学に入学することが出来ました。そこで、はじめて県外に住むことになりました。

大学

「日本一」に憧れ、筑波大学体育会剣道部に入部します。しかし、ここで人生でも大きな挫折経験をすることになりました。インターハイのチャンピオンが何名も在籍する名門の部活は、一般入試経由で入部する新入部員にはなかなかに厳しく、相当に過酷な環境でした。一般生向けの激しい練習が待ち構え、血中成分がおかしくなり、腎不全直前でドクターストップし、3週間ほど病院に入院したこともありました。そのお陰もあって、当時の「恐怖」と比べるとあらかたのことには怖さを感じることがなくなりました。命を取られるわけじゃない、と。これが実は、一生の財産になったかもしれません。そういった体育会の生活は大変に厳しく、剣道を活かした職業を目指している訳ではなかったこともあり、続けるモチベーションが消えかけてしまっていました。1年生の最終関門である2週間に及ぶ真冬の寒稽古というイベントが終了するまでは、どうにか頑張ると決め、寒稽古最終日に退部届を出すことを選択します。しかし、よりよい未来のために、自ら辞めると決断したことではあるものの、物心ついた頃から続けてきた剣道を手放す喪失感は想像以上に重く、自信も失い、どん底に落ちる経験となりました。この挫折経験は私の人生にとって非常にありがたい存在になっています。「もしかしたら自分は逃げたのかもしれない…と思ってしまうのは、やりきっていない自分がきっと存在しているからである」「自分で決めたことを正解にするのは自分であり、自信を持って次の挑戦に邁進するべき」こんな人生訓を強烈に与えてくれたことは、大学時代の最大の財産であると思っています。この辛いときに支えてくれた姉には一生感謝です。

スポーツを中心とした生活はしなくなりましたが、小学校のときにやっていたアルペンスキーを再開し、インカレ等にも出場し、3年生のときには体育会スキー部の主将も務めました。そのため、冬になるとハンターマウンテン塩原の寮に月単位で泊まり、スキースクールのインストラクターもやったりしていました。大人のレッスンよりも、キッズレッスンの方が目に見えて成果が出るので楽しかったです笑

その後、教育関係学問において大学教授を目指し、徐々に学問が拠り所になるような学生生活を送ることになり、筑波大学大学院博士前期課程への進学を意思決定します。

大学院

筑波大学大学院に入学すると、研究漬けの毎日を送ることになりました。朝から図書館に籠もり、書籍や文献を読みあさり、夕方以降に研究室に移動して論文を執筆し、体力が続く限りやり続けて真夜中にベッドに倒れ込む、そんな毎日を送っていました。知的欲求のままに生き、未知を既知にする日々は自分の性分にも合う部分があり、充実した2年間を送ることができました。修士論文では、学校教師が組織化した際に形成される組織文化のどんな因子が教師個人の授業改善行動にどのような影響が及ぼすのか?というテーマで大規模定量調査を行い、データの解析をする中で出てくる結果の一つ一つに興奮するというマニアックな感じでした。

博士前期課程(いわゆる修士課程)を修了した後の進路は、大学教授を目指すべく、すぐに博士後期課程(いわゆる博士課程)に進学することも考えましたが、教授になった際に受け持つ学生に対して実社会でも通用するアドバイスを誠実に出来るような人を目指したいと思い、修士と博士の間の数年だけ、民間企業で働くことを目指して就職活動を行います。最終的には総合商社や他の企業などと迷いつつも、若いうちから一番しんどそうな会社に入社することに決めました。

民間企業

2011年、ハードワークで有名なリクルートに新卒入社し、馬車馬のように働きました。2011年入社組はリーマンショック直後の就職活動であり、ほとんどの企業で新卒採用数が抑制されていた世代でもあり、同期の人数は少なかったが、その代わり非常にキャラの濃い素敵な仲間たちに出会うことが出来ました。入社後は営業職から始まり、企画職、渉外職、課長職に従事。新規事業組織での企画職業務が最も長く、経営大学院へ単科生として通いながら事業戦略立案などに力を入れてきました。表彰が多い会社でもあるのですが、大阪拠点の賞や、事業部MVPや全社AWARD(いい仕事共有会のようなもの)なども受賞することができ、社内の応援者がたくさん増えるきっかけにもなりました。これらが、優秀な方々と一緒に挑戦的でエキサイティングな仕事ができたという財産に繋がりました。他の業務で言えば、既存事業内では営業戦略(対面&非対面)、販売代理店経営管理、組織マネジメント、事業内人材育成計画立案業務、職務要件制度改定業務等々を担当。様々な部署を渡り歩き、様々な業務領域を経験させて貰い、課長職として責任を持つ中で、ビジネスや商売の面白さに目覚め、どんどんのめり込んでしまいました。博士課程に戻り教授を目指す道から、大手の民間企業においてビジネスという側面から日本社会に貢献するというダイナミズムに取り憑かれ、個人として、組織として、事業として、影響の範囲を少しでも拡大できるようにどんどん努力する毎日を送ってきました。

現在

詳細は「政治を目指す理由」にも記載させていただきますが、30代も半ばに差し掛かった際に「自分は誰の役に立ちたいのか?」「誰のために人生で腰を据えて努力したいのか?」を真剣に考えるようになりました。その際の脳裏には、自分を育ててくれた故郷がまっさきに浮かび、それまでの人生で政治を志していた訳ではありませんでしたが、その世界の門を叩くことを決意しました。